“人の安全”と“モノの安全”について

「安全」という言葉は、普段何気なく使っていますが、個人によって受け取る感覚は多様だと感じます。
「人の安全」と「モノの安全」の区別も深く考えず、漠然と「安全」が使われています。
しかし、この「人の安全」と「モノの安全」は明確に意識されるべきではないかということです。
なお、「モノの安全」という表現は、「物の安全」だけでなく「管理とか運営面における安全」も含めた、「人の安全以外の広く経済的損失を含む安全」として使用することにします。

ところで、この“安全”ですが、通常は確率とか信頼性という論理を使って表現されます。
「長期間災害を起こさなかったので“安全”である」とか「この作業の危険性はあの作業の危険性よりも少ない」とか言われて納得することがあります。
なかには「大丈夫!」という一言で納得させられて行動を強いられることさえあります。
しかし、元々危険性が少ないのか或いは無かったのか、または危険性が大きいのにたまたま災害が起きなかっただけなのかの見極めは極めて難しいことです。
それに「安全対策をしているから大丈夫!」と言われても、その安全対策の有効性を立証するのは難しいと思います。

日々現場で危険と向き合った仕事をしている人にとっては、「はいそうですか」と平然と受け入れられないのではないでしょうか?
経験の多い人ほど、思慮の深い人ほど平然としてはいられないのではないでしょうか?
日常の危険にマヒしてしまっているということも考えられますが---

ここに「人の安全」と「モノの安全」が渾然一体として扱われている面が見られるのです。
筆者も感覚的にはおかしいと思っていながらも、「モノの安全」の論理によって「人の安全」を解釈してきた面があるのも事実です。
「人間尊重」というのなら、「従業員大事」というのなら、この区別を明確にして考えるべきで、経済的論理によって「人の安全」を考えてはいけないのではないかということです。


人の注意だけに頼る安全では、その緊張の糸が切れたときに事故を起こすことになります。
安全な環境をつくり出すには、それに相応しい構造(仕組み)があるはずであるということで、
旧労働省産業安全研究所により、フェールセーフの論理を一歩進めた「決定論的アプローチ」としての「安全確認型システム」が30年くらい前から提唱されています。
大略は、

  • 危険なときは停止。
  • 疑わしい場合も停止
  • 安全と確認できるときのみ運転可

ということです。
今まで、「疑わしい(グレーゾーン)」において「運転GO!」となっていたケースも多いのではないでしょうか?

安全確認の例として---
交差点通過するときの運転を考えてみましょう。
信号は同乗者に見て貰って、運転者であるあなたには見えないとしましょう。
<ケースA>では
同乗者が「赤だから止まれ」と言ったときのみ「停止モード」に構えるとします。
<ケースB>では
同乗者が「青だから進め」と言ったときのみ「進行モード」をとるとします。

どちらが、運転手として“安心”していられますか?
<ケースB>ですよね、
<ケースA>だと、「赤」と言われたときのみ停止モードですから、もしかしたら同乗者が「赤」を見落とすかもしれません。そのようなときもすべて「進行モード」です
<ケースB>だと、「青」といわれたときのみ「進行モード」です。それ以外は停止です。
「青」を見落としても停止です。
「そんなことしていたら、運転効率が悪い!」と言われるかもしれませんが、<ケースB>の方が明らかに安全です。
(あとは、この<ケースB>において、効率化運転技術のスキルアップを図っていく努力をするということです。)

あまり現実的な例ではなかったかもしれません。お許しください。
そして、「人の安全」を扱うときはこの安全確認型システムによりましょうということです。
「モノの安全」onlyとハッキリ区別できるときは、経済性論理でつまり効率最優先でもOKということです。


しかし、現実問題として,上記論理をなにもかもに適用することは難しい面が多々あります。
そこでいろいろな手法が考えられているのですが、リスクアセスメントによる「許容リスクレベル」という概念が出てきます。
これについては次号以下で考察を加えたいと考えます。

因みに国際的には「安全」とか「安全な」という用語の使用については、避けることが望ましいとされています。
その理由は、「特段、有益な情報を提供しない」「リスクから解放されるということを保証しているような印象を与えやすい」からとされています。
これを受けて、「安全帽」が「保護帽」というように変更されています。