6月19日朝 NHKラジオを聞いていると、ほんの10分間程度の間に考えさせられる話題が2つありました。
ひとつは
イタリアにおけるある裁判の話
離婚家族で、母親と子供が一緒に暮らしていて、母親は肉食なしの生活で快調、子供もそのような食生活に馴染むようになっていた。
子供は週の内のある日は父親との食事の時間が定められており、その父親との食事のとき、肉を食べるという。
そして、その後体調を崩すとのこと。
そこで、裁判に!
(そんなこと裁判にまでしなくともと思うのですが、お国柄でしょうか?!)
裁判所の下した判定は、「肉も適当に食べるように」との常識的なもの。
これしか判定のしようがないようにも思えますが、菜食主義(肉食反対主義)の立場よりすれば不当となるのでしょう。
もうひとつは
「健康ライフ」のコーナーでの話
IPS細胞の利用が進んで、動物の細胞に人間の細胞を加えるという話。
勿論その反対のケース(人の細胞に動物の細胞を加える)もあり得る。
その時の倫理問題
IPS細胞の発見が、人類に与える影響の大きさは認識しますが、新たな倫理観が要求される(形成される)であろうという話。
「宗教的立場からどのように考えるか」というような話は以前からありましたが、社会的或いは道徳的にどう判断するのが妥当ですかという話。
(以前は“進化論”も宗教家に全面否定された時代がありました。)
以上のように、立場によっては真反対の主張があります。
周囲の人も巻き込むため、「各個人の自由でしょう」で片付けられる問題ではなさそうです。
(裁判の世界では各立場の主張が当たり前なのでしょうが、裁判では前提としての法的価値基準があるはずです。)
「経済の地方多様性」「民政自治への回帰」「価値観の多様化社会の到来」等々言われますが、「個人としてどのような道を歩むべきか」というような課題にもなります
「個人の多様化(社会の混沌?)」まで進むのでしょうか?
「全体の調和を図った上で、個の価値多様性を認める」という社会から「個の価値基準を認めた上で、全体を調和を図る」というような社会へ向かうのでしょうか?
早朝の寝起き時にふと考えた話題でした。
真実性(純粋正当性)の原理があるのなら、そこに判断基準を求めたいと思うのですが---
そういえば、「ベニスの商人」というシェイクスピアの戯曲はご存じだと思います。
悪徳商人のシャイロックの主張とそれへのシェイクスピアの判断が示されていますが、ドイツの大法律学者イエリングがシャイロックの主張を是として、このシェイクスピアの判断に反論をしています。
理で言えばイエリングの主張(血を伴わない肉はない)、情で言えばシェイクスピアの主張(理屈をこじつけても善人を救う)ということであります。
どちらも間違いではない。(“人間”としてはシェイクスピアですが--)
要はその時の状況、時代の価値観によって判断基準には相当の幅があるということになるのでしょうか?!
【閑話】
夜間散歩していて、星空が自然と目に入るという記事を以前書きました。
夏の星座「さそり座」の尾っぽにある「ネコの目」認識できますか?
さそりの尾っぽの位置に、微妙に離れた2つの水平に並んだ星!
以前から不思議に思って見ていたのですが「ネコの目」というのだそうです
やはり名前がついていました!
そして、その左横に「南斗六星」があるということなのですが、最近まで把握できませんでした。明るくない星の集まりです。
ところが最近、ひしゃくの底の星が一つ見えることにより、ひしゃく型が認識できました。
ある種の感動を覚えました!