鳥取城跡・仁風閣 鳥取東照宮

<鳥取城跡・仁風閣>

鳥取城跡の案内掲示には
(略)石垣の姿は、天正10年(1582)から嘉永2年(1849)の約270年の間に段階的に整備されたもの。
特に元和3年(1617)に入城した池田光政は、それまでの5~6万石規模であった城を32万石の居城として一新。
(中略)
城内の建物は、明治時代に大半が取り壊され、残った石垣も昭和18年(1943)の鳥取大地震で多くが崩れた--
とあります。

仁風閣の案内掲示文には、
明治40年5月、時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓に際し、ご宿舎としてもと鳥取藩主池田仲博侯爵によって、扇御殿跡に建てられた。
(中略)
フレンチルネッサンス様式を基調とする木造二階建の洋風建築で中国地方屈指の明治建築。
(中略)
「仁風閣」の名は、行啓に随行した海軍大将東郷平八郎によって命名されたもの--
とあります。

 

<鳥取東照宮>

鳥取東照宮鳥取東照宮

 

 

 

 

鳥取藩初代藩主池田光仲によって造営された。
光仲は僅か3歳で藩主となり、慶安元年12月(1649年)に藩主となって16年目にして初のお国入りを果たした。
この際、藩主としての威厳を示すため、幕府に願い出て鳥取城下への東照宮勧進を許可された。
光仲の父・忠雄の生母は徳川家康の次女・督姫で、光仲自身は家康の曾孫となる。
光仲が曾祖父・家康を追慕しての東照宮勧進でもあり、かつては豊臣系大名の雄として知られた池田氏が幕府への恭順の意を示すための勧進でもあった。
慶安3年(1650年)に因幡東照宮が完成した。
明治7年(1874年)3月、樗谿神社に改称、池田忠継(光仲の伯父)・忠雄(光仲の父)・光仲を合祀、同時に県社に列格する。
更に明治11年(1878年)最後の藩主・慶徳を合祀する。
平成23年(2011年)10月、本来の名称が「因幡東照宮」であったとの理由から鳥取東照宮に改称した。
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