平川克美氏「21世紀の楕円幻想論」に「楕円の思考」が示されています。
楕円思考は花田清輝氏が「楕円幻想」の中に示されている考え方だそうですが、当筆には内容が少し難しいのですが、「物事の “楕円” としての捉え方」には納得する面があります。
下記のような記述があります(要約ピックアップ)。
(著者の意図を外れるかもしれません。文責は当筆)
<相反する視点の存在>
- 二者択一を迫る傾向にあるが、これは思考停止だと言わざるを得ない。
- 相反する二つの事項、異なった原理を有する二つの事項について考えるときに、どちらか一方だけに収斂させれば問題は解決すると考えるのは、成熟した大人がやるべきことではない。
- 人間が善と悪に引き裂かれるのも、徳と欲望に振り回されるのも、楕円のように、二つの異なった原理がせめぎ合い、共同し合いながら、社会を構成しているからだと思うからです。
- アンビバレント(価値両義的)であることが、自然なのです。
- 二つの焦点を持つことにより思考がスムーズになる。
- 一つの基準で考えたがる、しかし現実は、相矛盾するような基準がある。
- 現実問題としては、「どちらを選べ」ではなく、「どうやってマネジメントするか」「どう考えるのか」「どの程度まで『○○』が有効で、どの程度まで『××』を取り入れるか」といった程度の問題として設定する必要があるのです。
ところが、「○○」か「××」を選べといった二者択一を迫るという脅迫的な言論の跋扈が起きてきた。 - いつも焦点が二つあり、それらは反発しながら、相互に依存している=「楕円幻想」
<楕円思考>
- 円を描くと思われていた宇宙軌道は楕円であった!
楕円軌道を描くということは、数学的には、焦点が二つあるということ! - 相反するかに見える二項は、同じ一つのことの、異なる現れであり、そのどちらもが、反発し合いながら、必要としている。
どちらか一方しか見ないというのは、知覚怠慢だということ。
(人は真円に憧れ、そのように思考しがちであるが---。真円的思考は二者択一を迫ることになる。) - 相反するのだが、どちらも現実だという両義的な問題点
- これまでは、良かったかもしれないが、これからは、違うやり方、もう一つのやり方というものを模索する必要があるのではないか?
- われわれは転換期のやり方が、まだよく判らない。
--二つの焦点の間で模索する? - 私たち現代人が陥っている陥穽(かんせい)は、こうした楕円的で両義的な構造を持つ、異なる経済・社会システムや、モラルの体系というものを、二者択一の問題であるかのように、錯覚してしまうということです。
<そもそも楕円とは>
楕円についての基本知識
高校の教科書によりますと---
二つの定点に至る距離の和が一定な点の奇跡を楕円という。
:点Pが楕円上のどこにあっても,2つの定点 F1 、F2 からの距離の和「PF1 + PF2」は一定。
この二つの定点を焦点という。
<楕円思考について・考察>
現実を考えてみましても、いろいろと思い当たる点があります。
<二つの焦点の存在>
『欲の経営』と『思いやりの経営』
『現実』と『理想』
『従来の決まりに従う道徳』と『思いやりの道徳』
<二つの焦点からの合計が一定>
『人の出せるパワー(エネルギー)はどのように頑張ってもほぼ一定しか出ない』
心理学者ユングは、人間が本質的に希求する人格を「老賢人」と「大慈母」としています。
また、最近聞いた話しですが、高野山の壇上伽藍(だんじょうがらん)の「根本大塔」と「西塔」について、「弘法大師は、大塔と西塔を、大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として二基一対として計画していた」とのことです。
『二つの焦点を持つことにより思考がスムーズになる!』
人は、一つの基準で考えたがるが、現実は、相矛盾するような基準がある。
頭の中で「直線」「真円」を想像し、現実を無理矢理それに押し込めて考えようとするより、二つの基準を認めることにより、スムーズに思考を広げることができる。
「人間の出せる総力は一定、焦点となる考え方は複数(2つ)ある」と捉える方がむしろ現実に近く、自然であるような気がします。
また、最近「レジリエンス」「SafetyⅡ」「コーピング」というような、今までの思考形態に対する新たな視点にも注目が集まっています。
既存の真円志向への修正として、“新たな焦点の設定”いうことでしょうか?
この「楕円思考」という視点。
考えを広げてくれて、気を楽にしてくれます。
※レジリエンス:生き延びるための柔軟思考
SafetyⅡ:レジリエンス思考を取り入れた安全対応
コーピング:ストレス対処行動
--ざっくり表現しましたが、これらの用語には、それぞれ専門性の深い意味合いがあります。