From「道徳科学の論文⑧⑨」
『最高道徳では、神に対して自分の今後の精神作用と行為を神意に合致するようにいたしますということを誓い、人心の開発救済にいっそう尽力することを決心するのです。』
ここに「最高道徳」というのは、質の高い精神性を備えた道徳を、一般に言われる道徳と区別して廣池博士が定義された道徳で、その道徳原理を世界諸聖人の道徳性に求めています。
このような「最高レベルの倫理道徳性」の実行においては、日常の精神作用と行為を「神意」に合致させるということです。
神意とは、「人間性の成熟への法則性」を指していると解釈できます。
そして、「人心の開発救済」とは、神意に沿って人へ誠意を尽くすという意味合いです。
「人心の開発救済」という言葉は、廣池博士は学問としての用語として使われたと思うのですが、現在において通常に使うには何か上から目線のような表現にも感じます。
「道徳科学の論文」が執筆された時代的背景も感じられます。(論文の脱稿は1926年)
続けて廣池博士は書かれています。
『このように聖人の教えは、道徳の根本原理のみを示していますから、具体的方法は、現代の知識と慈悲の心で適切に配慮して行い、その後は一切を神に任せて安心しているのです。』
「聖人の教えは道徳の根本原理のみを示している」
つまり、聖人の教えに人間性の成熟への法則性を見出したとしても、それは根本原理を示しており、具体的方法は実行者の知恵を必要とするということです。
この知恵の差異により結果にも差が出てくるということです。
「具体的方法は実行者の知恵を必要とする」が実地面での課題となります。
各適用の段階においては、それぞれの状況によりいろいろな属性が付いてくることになります。
ここに実行の段におけるバリア(難壁)があります。
逆に言えば、原理に沿った良質の知恵が必要ということになります。
そして、「一切を神に任せて安心しているのです」という言葉が出てきます。
「人事を尽くして天命を待つ」ということです。
つまり、「天命に従ってつぶさに人事を尽くす」と「人事を尽くして天命を待つ」は対になって構成されています。
ポイントは、「人事は天命に従う必要があるが、結果は天に全託する」ということです。
廣池博士は論文の中で下記のようにも書かれています
『自己の行うところの人心救済に関して、たといいかなる事あるも、泰然自若《たいぜんじじゃく》として安心し、もって人事を尽くして天命を待っておれば、必ず審判の日において勝利の栄冠を得ることは疑いありませぬ。』
最高道徳の格言『天命に従ってつぶさに人事を尽くす』という言葉を聞いて、じゃあ「人事を尽くして天命を待つ」はどうなのか? という考えから論文を探ってみました。
因みに、「人事を尽くして天命を待つ」について辞書には
「南宋初期の中国の儒学者である胡寅の『読史管見』に「人事を尽くして天命に聴(まか)す」とあるのに基づく。」とあります。