廣池千九郎博士の「道徳科学の論文」第二版の自序文冒頭に下記のように、論文全体に通じる基調理念を示されています
まずこの自序文を熟読せられたし。巻頭に自序文を掲ぐることは甚だ不遜《ふそん》の恐れあれど、各位に本文を読んでいただくため、やむを得ず然《しか》り。
天地剖判《ほうはん》して宇宙現出し、森羅万象《しんらばんしょう・よろずのもの》この間に存在して、いわゆる宇宙の現象を成すに至れるは、偶然にして然《しか》ることは出来ないのである。
必ずやその原理もしくは法則ありてここに至れるものである。故に宇宙間に産出してこの間に生存するところのわれわれ人間としては、この宇宙自然の法則に従わねばならぬことは明らかであります。この故に聖人はこの宇宙自然の法則を天地の公道とも称せられたのである。すなわち、いわゆる「公《おおやけ》の道」という名のごとくに、何人《なんぴと》も必ず遵守《じゅんしゅ》せねばならぬ道であるのです。
以上の理念に基づき廣池博士は道徳の活用の必要性について論を進められています。
廣池博士は論文執筆を始められるまでのご自分の研究生活で蓄積された知識を総動員して、幸福追求としての道徳についての論述を進められていったのだと思います。
その当時(約100年前:大正14年論文脱稿:1925年)は、西洋の自然科学へのあこがれのようなものがあったとも思います。
自然科学の法則性と同じような原理を、古今の聖人が説いた教えをもとに社会科学の中においても見出せないか---
そして、廣池博士はそれを「道徳科学の論文」として社会に問われました。
最先端の科学においては、宇宙誕生から87億年に亘るインフレーション宇宙論、そして最先端量子科学による新たな世界観が語られているそうです。
分野と時代、或いは表現は違うにしても、その意図するものは廣池博士が描いた構想と同じだと思います。
そして田坂広志氏がその著書「死は存在しない」において示されている「科学と宗教はひとつ」の方向性にも通じるように思います。
「神意」の源は「宇宙エネルギー」?