From「道徳科学の論文⑨」
『従来多くの人は、事をくわだてる時に、ただ事業上の知識のみを尊重して、道徳的精神をつくってから事をくわだてようとする人は少ないのであります。したがって、その事業は成功することもありますが、失敗することが多いのであります。』
この廣池博士の言われる「道徳的精神」というのは、仕事に対するしっかりとした道徳性を含む信念・姿勢(態度)を言われており、当然に知識・経験も積んでのものであろうと解されます。
単に知識、資本だけではないく、この道徳的精神をしっかりと形成していることがことを企てる前提というわけです。
そして、廣池博士はその内容を説明されています。
『さて、最高道徳では、まず十分に最高道徳の精神をつくり、その精神で事業をすれば、必ず成功すると感じられるようになってから、初めてその志す事業に実地に着手するのですから、失敗ということはありません。ゆえにそれは、利益の獲得法としては遠まわしのようですが、かえって近道です。今日まで、私の指導を受けた人で事業に失敗した人は一人もなく、みな成功しています。』
- 「道徳」とは、「社会生活を営む上で、一人ひとりが守るべき行為の規準(の総体)。自分の良心によって、善を行い悪を行わないこと。」と辞書等に書かれていますが、個人或いは、個人間、個人と社会との関係性についての標準や考え方の規準です。
即ち、個人のレベルで考えますと、「人の行動の規準」とも言えます。 - 「徳」とは、辞書に「身についた品性。社会的に価値のある性質。善や正義にしたがう人格的能力。広く他に影響を及ぼす望ましい態度」とあります。
つまり「身についた“真の人間力”」とも言え、「精神性」を備えたものです。
廣池博士は、質の高い精神性を備えた道徳を、一般に言われる道徳と区別して「最高道徳」という言葉で示され、その道徳原理を世界諸聖人の道徳性に求めています。
--廣池博士は、この最高レベルの倫理道徳性を(その精神性も含めて)「最高道徳」という語で示し、通常行われている道徳を「普通道徳」として区別しています。
つまり、二つの焦点で以って道徳を対比検討されています。
(個人の発し得る総エネルギーはほぼ一定と考えれば、二つの焦点からの和が一定の形状である「楕円思想」と考えることもできます。要は、その楕円線上のどこに判断・行動の基準を置くかというようにも解されます。)
ここで、疑問が生じます。
通常よく言われる次の言葉が浮かんできます。
「形より入る」(形より入って精神をつくる:まず真似てみる)
「環境が整ってくると意識も変わってくる」(形状承継から心の承継へ)
これらの言葉も、的を射た間違いのないことを言っている思いますし、科学的にも多くの例証があるようです。
現実に、身近な例で、いろいろと経験することでもあります。
「言われるままにやっていると、面白くなる」
「環境のいいところでは、仕事もはかどり、意欲も湧く」
しかし、考えますと、これらの言葉は、方針・方向が定まった状況下での、ある局面での対応策です。
上記廣池博士の格言とは、意味している次元が異なります。
廣池博士は、方針・考え方を言われています。
また、この「先ず精神を造り 次に形式を造る」という提言に対してはいろいろな考えが浮かんできます。
経営においては、「リスクテイク」という言葉もよく使われます。
余裕のある資金計画のもと、新たな事業に挑戦していく(企業の生きる道を見出していく)ということです。
「確固たる自信がつくまでは自重せよ」では機を逸するという事態も考えられます。
確固たる自信がつくまで(確たる成功をイメージできるまで)ということは、相当の実力がつくまでということですから、それでは時間がかかり過ぎるということも考えられます。
それに、「人格者が経営すれば間違いない」と断言できない面もあろうかと思います。
「経営陣の品性(道徳性の高さ)」が将来に重きをなしているということには間違いありません。
「起業家の育成が大切」は言われて久しいですが、最近の社会情勢は、企業数が減少しているとも聞いています。
このような状況下で、起業家精神の再興を待望するのですが、この廣池博士の言葉は、その際のインターロック(粗製濫造の歯止め)となる格言ともいえます。
因みに「道徳科学の論文」は1925年(大正14年)7月に脱稿しています。
その当時に比べ、社会の状況は大きく変わっていますが、上記廣池博士の格言は事業経営は人格ファーストという真理として受け容れ得ます。