私たちは、よくものごとを「危険か?」或いは「安全か?」というように二分して考え、またそのように言ったりもします。
しかし、「何が危険なのか?」「どこが安全なのか?」と問い返したとき、明確に返答できるかとなると少し曖昧になります。
そして、“危険”或いは“安全”にも程度があるし、この“危険”と“安全”の中間に位置するゾーンがあることにも気づきます。
何か企業不祥事があったり事故が起きたとき、経営のトップの人が出てきて、「これからは管理を強化します。」「絶対に安全に努めます。」「職場の危険をゼロにします。」というようなことを言います。
大体パターンは決まっており、聞いている方も何か腑に落ちない感を持ちながらも一応は納得します。これで一件落着です。
しかし、これは日本での話しということで、外国人記者をはじめ特に欧米の価値基準を持っている人たちには“不可思議”と映るそうです。
欧米では、“危険”と“安全”との間のグレーゾーンを明確に位置づけているとのことです。
リスクアセスメントでは、「重篤度(危害のひどさ)」と「可能性(危害の発生確率)」を評価軸として“リスク”という概念で危険性を評価します。
大まかに言うと、“安全”を「許容されるリスク領域」、“危険”を「“許容されないリスク領域”+“リスク低減が必要とされる(努力により許容され得る)領域”」と区分しています。
この“リスク低減が必要とされる領域”がグレーゾーンということになります。
日本よりも、内容が一歩進んでいます。
そして、「絶対安全」は無いという考え方です。
日本では精神論で、理想とする観念上の安全(絶対安全)を想定するのですが、現実にはそのような安全はあり得ないということです。
その上で、受け入れ可能という“許容できる領域”を安全と見做しましょうということです。
現実的な解釈だと思います。
そして問題となるのが、このグレーゾーンである「リスク低減が必要とされる領域」です。
この領域のリスクの判断基準に「ALARP」という概念を設定しています。
イギリスの規制ですが
「Risk should be reduced “As Low as reasonably practicable” :ALARP」
(合理的に実行可能な最小限度内までリスクを低減する)
つまり、リスク低減の困難性と経済性を考慮の上、できるだけ可能な範囲までリスクを低減するということです。
非常に合理的な解釈基準だと思います。
私たちも、危険を承知で車の運転をします。
安全でありたいのなら車の運転という危険を冒さなければいいのですが、敢えてその危険を経済的理由等で受け入れています。
危険に対する考えは欧米の方が発達しているようです。
決めつけの白黒二極的精神論ではなく、その中間の考察が科学的で現実的だと思います。
この“リスク”で危険性を評価しようというのが世界の安全管理の流れにもなっています。
これからの日本における安全管理活動においても、リスクアセスメントの視点は必須となると思います(必須になっています)。
「危険」はある程度具体的に表現することができますが、「安全」は「危険ではない」という否定形でしか表現できないと言われます。
なにか「幸福」と「不幸」という言葉の使い方も似ているように思います。
また、「道徳」と「不道徳」との間にも同じような関係が考えられそうです。