組織事故・トラブルのメカニズム ③-1

樋口晴彦氏の文献「組織の失敗学」(中災防新書)は、組織事故・トラブルについての“気づき”と“認識の深め”のための非常によい教材を示してくださっています。
書かれている教訓的な内容をピックアップし、筆者なりに自戒も込めて少し深耕させていただきたいと思います。
<東日本大震災について思う>

感情論で危機管理はできない

<東電社員の待遇改善を求めた事例>

福島第一原発事故時、その対応において放射線被ばくの恐怖にさらされながら懸命に活動を続ける作業員達の肉体的・精神的疲労はいかばかりであろうか。
彼等も家庭においては被災者であり、業務との二重のストレスにさらされていた。
東京電力としては、厳しい避難生活をおくっている地元住民のことを考えると、自社の社員に配慮するわけにはいかないという面があったであろう。
しかし、この難事に対応する人達が疲弊していっては、これからの長期戦には対応できないとして、作業員達の待遇を至急改善することを樋口氏は訴えた。
彼等をいたずらに消耗させれば、作業の能率が落ちるだけでなく、判断力や集中力が低下してヒューマンエラーが増加することが避けられない。
・感情論では危機管理はできない。
 --後方支援(兵站)の軽視がどれほど悲惨な結末を招くか、太平洋戦争が教えてくれているはず。
・この未曾有の事態を収拾できるかどうかは、ひとえに作業員達の双肩にかかっている。
・当時の東電関係者は、避難した住民の待遇改善が最優先課題で、作業員への配慮は二の次にせざるを得ないと考えていたようだ。
しかし、危機管理の観点からすれば、こうした発想は間違っている。
「東電の作業員よりも避難住民を優先すべし」という感情論では危機管理はできない。

一部のヒステリックな運動家の振る舞いに怯え、最初から議論を放棄しているようでは、運動家はさらに図に乗って騒ぎ続け、一般大衆からの支持はいつまでも得られない。

「避難住民を後回しにするのか?」
「住民はどうでもいいというのか?」
というような極端な意見、感情論が出てきて周囲を巻き込むということはよく見受けられます。
そのような極端論は、人々を引きつけます。
記事の表題にもなりやすい傾向にあります。
つい乗せられてしまいそうになることもあります。
しかし、ここが思考を巡らすポイントとなります。
現実はどうなのか?
情報が乱れ飛ぶ社会、「 何か方向がおかしいのでは?」と感じている人も多いのではと思いますが---。
せめて、組織のリーダーの立場にある人達には、情報の源となる現実に眼光を向ける探究心を持って欲しいと思います。

被告席の言い分

<危機管理の評価の難しさ>

世間の人々は、「きちんと危機管理を行えば、事態は速やかに終息する」とイメージしているようだが、これは評論家やマスコミが作り上げた虚構である。

筆者の経験から申し上げると、危機管理とはそれほどうまくいくものではない。
緊急事態が発生してしまった段階で、もはやどうにもならないことが沢山あるのだ。

結末が明らかになった今だから言えることである。
危機管理の渦中にあっては、「情報は足りず、間に合わず、あてにならず」が現実であり、限られた情報の中で最善と判断したことをやるしかない。

危機管理では戦力を集中投入することが原則だが、通常業務とのバランスも忘れてはならないと痛感させられた。

経験談のポイントは「危機管理の渦中の担当者は、限られた情報をもとに様々な状況を考慮して判断を下しているため、その一側面だけをとらえて性急に批判するのは適当ではない」となる。

事実関係が不明なのにあれこれ批判するのは無責任の誹りを免れず、担当者をいたずらに疲弊させたり、対策への信頼性を失わせたりするなど、「百害あって一利無し」である。
過去の対策が失敗かどうかについては、事態が終息して事実関係の全貌が判明した段階で、ゆっくり議論すればよいのだ。

あれほど執拗な批判が、何の根拠もない憶測に基づいてなされていたと思うと、日本における危機管理を巡る議論が如何に稚拙であるか、あらためて嘆息を禁じ得ない。

それぞれに重みを持って迫ってくる言葉です。
世間の人々は、「きちんと危機管理を行えば、事態は速やかに終息する」とイメージしているようだが、これは評論家やマスコミが作り上げた虚構である。
という言葉には、世間の情報を参考にするのはよいが、それに踊らされず現実を精確に把握することに努めよという筆者からの忠告です。
ジャーナリズムに対する姿勢として、古くから言われている「現地・現実・現物」を疎かにしないという教えに通じると思います。

「想定外」と「予想外」の使い分け

<どこまでリスクにそなえればよいか>

「予想外」--
そもそもリスクの存在を認識できなかったのだから、対策を実施しないのも当然だ。
経営者が特に不勉強だったなどの事情がない限り、その責任を追及するのは酷であろう。
しかし、リスクが予想できたにもかかわらず、「対策を実施しない」と判断した場合、それに対して経営責任が発生する。
前者を「予想外」、後者を「想定外」と厳密に使い分ける必要がある。
ちなみに筆者(樋口氏)の観測では、「予想外」のケースは非常に少なく、その大半は「想定外」、つまり経営責任を問われるべき事案である。

危機管理への備えは、経営上の(多々ある課題の)選択肢の一つにすぎない。
経営者側に経営責任を取る覚悟があるのならば、発生確率の低いリスクを想定から外しても構わない。

筆者(樋口氏)が危惧するのは、震災後に巻き起こった「危機管理フィーバー」につられて、想定範囲を安易に拡大しようとする経営者が出てくることだ。
いかに大風呂敷を広げても、その対策を具体化していく過程で、現実の制約に直面して尻すぼみになるのは目に見えている。
その結果、建前では想定しているはずなのに、現実の対策は不十分で、「想定外」と変わらなくなってしまう。
こうした羊頭狗肉の状態は、根拠のない自信や期待感が独り歩きするという点で、何もやらないよりも有害なことが多い。
「どんなリスクにも備えます」という熱いカラ約束になってしまう。
企業経営には、「あらかじめ準備するリスクはここまで」という冷静な見切りが求められるのである。

「想定外」という言葉は安易に使用されますが、このように定義づけますと、危機管理(リスクマネジメント)を一歩深めることができると思います。
リスクアセスメントで、現場で現実に行われているリスクをできるだけ洗い出し、それを見積り、評価して現状を把握する。
そして、経営資源が限られているなかで、リスクの大きさに応じてリスク低減対策を取捨選択して対応していくということになります。

死亡事故等の重大事故が起きた直後に、その対応策を大々的に宣言しても、数年経てば尻すぼみになっているというケースは多くの関係者が経験していることです。

危機管理に向いていない人たち

<「ゼロ発言」>

原子力安全委員会の委員長が「海水注入による再臨界の可能性はゼロではない」として再臨界の危険性を示唆したことが、その後の迷走につながったとされる。
ここで注目していただきたいのは、この委員長の認識の珍妙さである。

問題は、発言者の「立場」である。

一介の科学者として専門知識を披露すればよいという気楽な立場ではなく、行政機関の長として原発事故に対する措置を企画し、総理に進言する役割に従事していた。

筆者の経験では、危機管理の渦中でこうした発言を聞くことは決して珍しくない。

危機管理の場では、巧遅よりも拙速が重んじられることはよく知られているが、混乱した状況下で拙速に判断を下せば、結果的に失敗するケースも出てくるのは当然だ。
少し言い換えれば、たとえ失敗するリスクがあったとしても、何も決断せずに手をこまねいているよりもましという割り切りである。
しかし、危機管理の担当者であっても、とかく失敗を恐れる人はいるものだ。
失敗しないようにするには、決断しないことが一番である。
そのために出来るだけ発言を避け、やむなく発言する場合でも、YesともNoともとれるレトリックを駆使して、誰か他の人が決断するまで逃げ回る。
そうすれば、失敗した場合には「自分は警鐘を鳴らした」と弁解でき、成功した場合には栄誉の分け前にあずかれるというわけだ。

世の中には、重大な決断を下せる人と、それから逃避しようとする人の二種類がいるということだ。
そうなると、危機管理の担当者に重大な決断を下せる人を充てるしかない。
あとは経営者の人物鑑定眼しだいである。

鋭く的を射ている指摘だと思います。
原子力発電所事故における再臨海の可能性等の状況については、筆者には不明ですが、「世の中には、重大な決断を下せる人と、それから逃避しようとする人の二種類がいる」とのご指摘。
--なるほど、自戒しなければ---となります。

2021/03のBlog「“コロナゼロ”と“絶対安全”!」も参照いただければと思います。

【安全と安心の違い】

<かくして安全神話が生み出される>

「安全」とは客観的・科学的な評価であるが、「安心」は主観的・感情的なイメージである。
したがって、安全でないのに安心している、あるいは安全なのに不安に怯えているというケースが起きる。

そもそも安全とは、大雑把に丸めて説明できるようなものではない。
どのような科学技術もなんらかのリスクを本来的に背負っており、それを様々な対策で除去したり、封じ込めたりしている。
安全性についての説明とは、そうした対策がどのように機能しているかを述べることであり、話しがどうしても面倒くさくなってしまうものだ。

大抵の方が「安全とは100%の安全を意味する」と誤解していることも問題だ。
現実には、どれほど対策に配慮しようとも、リスクを文字通りゼロにするのは不可能である。
そこで、リスクが許容可能な範囲に収まっていれば、「安全」とみなしている。
つまり、安全とは絶対的なものではなく、あくまで相対的な概念というわけだ。

リスクを許容可能な範囲に封じ込めたことを踏まえて「安全」としているわけだ。

相手がそもそも理解しようとする姿勢を持たなければ、いかに説明しても効果はあまり期待できない。
また、非日常的なリスクに過敏になる件も、感覚的な問題だけに理性的な説明ではなかなか解消できない。
そこで事業者は、「安心」を手っ取り早く獲得する手段として、有名大学の教授、地元有力者、政府の方針などの「権威」を利用しようとする。

かくして、「権威者が安全と言っているから安全に違いない」という安全神話が生み出される。

安全神話の「信者たち」は、安全性の根拠を理解していないため、いざ何かの事件で安全神話が崩れたと感じると、全面否定の方向にはしってしまう。
その結果、普段は権威の言いなりでリスクについて自ら考えようとせず、何事かあるとヒステリックに喚き立てる幼児的な国民性が形成されることになる。

こうした安全神話から脱却するには、事業者側が説明努力を重ねなければいけないことは勿論である。
しかし、「理解の壁」は事業者だけの問題ではない。
一般市民の側でも、自ら安全に関わることを他人任せにしてはならないはずだ。

「信じていたのに裏切られた」という他人に寄りかかる姿勢では、いつまでも安全神話から抜け出すことは出来ない。
「信じた自分が馬鹿だった」と反省することが、安全神話を克服する第一歩となるのである。

「あんあん」の語呂合いが良いためか、「安全・安心」と組み合わせてよく使われますが、
「『安全』とは客観的・科学的な評価であるが、『安心』は主観的・感情的なイメージである」とその差異を示されています。
そして、リスクに関する安全管理の基本的な姿勢(解釈)を述べられています。
人は安心を得たいがためにいろいろと自分の納得する理由を付けたがりますが、リスクに正対する姿勢の必要性を説かれています。

「安全でないのに安心している、あるいは安全なのに不安に怯えているというケース」はよくあるのではとも思います。
「安全神話から脱却するには、事業者側が説明努力を重ねなければいけない」という指摘は、事業者の説明努力としてリスクアセスメントを積み重ねて深めておくことであると考えられます。