組織事故・トラブルのメカニズム ③-2

樋口晴彦氏の文献「組織の失敗学」(中災防新書)は、組織事故・トラブルについての“気づき”と“認識の深め”のための非常によい教材を示してくださっています。
書かれている教訓的な内容をピックアップし、自戒も込めて筆者の思いを少し述べさせていただきたいと思います。
<危機管理の具体論>

真に実践的なシミュレーションとは

<大災害を想定した医療訓練「エルゴマ演習」>

エルゴマ演習は、スウェーデンの災害医学の権威レンキスト教授により開発された教育用シミュレーションプログラム。
「エルゴマ」は英訳すると「エマージェンシィ」、すなわち「緊急事態」という意味。

過去の危機管理では、指揮中枢が事態の重大性をなかなか認識できなかったために、緊急体制への移行や応援部隊の派遣が遅くなり、みすみす被害を拡大させたケースが少なくないのだ。

回避できたはずの死(preventable death)

(訓練において)あまりの失敗の多さに参加者が頭を抱えるようでなければ、シミュレーションの意味がないのである。

現場での協働・連携の必要性、緊急時における情報連絡の難しさ、それぞれの持ち場での意思決定の重み、そしてマスコミ対応にいかに大きな労力を奪われるか等々を参加者に認識させなければならず、その企画には高度なノウハウと何ヵ月もの準備期間を要する。

良いシミュレーションとなるかどうかは、それを主催するインストラクターとファシリテーター(補助者)の力量にかかっている。

臨場感をどれほど持てているか(その対応の困難性を実感・納得できるか)。
いつも被害を受けた後になって、そのひどかったことを訴えるのだが、それを事前にどこまで経験体験できるか。
日常において経験する訓練(火災訓練・避難訓練等)においては、どうであろうか?
訓練の本質を改めて認識させられます。

BCP(事業継続計画)においても「災害想定訓練の種類」は多々挙げられていますが、その実質的実効性を検討するうえでの示唆であると思います。

確認懈怠の危険性

<重巡洋艦「インディアナポリス」の悲劇>

インディアナポリスは1932年に就役した米海軍の重巡洋艦。
1945年7月グアム島とレイテ島の中間付近で右舷に、伊58号潜水艦の放った魚雷を受け、わずか12分後に転覆沈没した。
救出活動が遅くなり、878名の乗組員が死亡し、米海軍創設以来の一艦船の沈没によるワースト記録となった。(略記)

インディアナポリス乗組員の救助が遅れたのは、同艦が沈没された事実を米軍側が認識していなかったためだ。
これには二つの理由がある。

第一の理由は、インディアナポリスが沈没間際に発信したSOS無線を、三カ所の通信施設で受信したにもかかわらず、そのまま放置してしまったことだ。
米軍側では、SOSの発信者を本人応答によって確認しない限り虚偽と見なす、という運用を取っていた。
しかし、インディアナポリスが短時間で沈没し、本人応答が出来なかったため、受信側は虚偽信号と判断してしまったのである。

もう一つの理由は、インディアナポリスが予定日時にレイテ島に到着しなかったことが問題視されなかったことだ。
レイテ島のマコーミック少将は、「インディアナポリスはかつて第五艦隊旗艦を務めていた経験があるので、おそらく太平洋司令部から新任務を付与されて変針したのだろう」と考えていた。
当時の米海軍では、通信量を軽減する目的で、「戦闘艦の到着については報告を要しない」との指示を出していた。
そのため、レイテ島からの特段の報告がされていない以上、インディアナは無事到着したはずと判断していたのである。

確認の手間を惜しみ、「~だろうと思います」「~のはずです」との見込みを前提にして仕事を進めた結果、ぽっかり開いた陥穽(かんせい)に落ち込んでしまう失敗は決して珍しいものではない。
とりわけ、情報が錯綜する危機管理の渦中では、こうしたエラーが発生しがちである。
それを予防するには、何事につけてもきっちり確認・再確認する動作を習慣づけていくしかない。

確認・再確認の重要性を説かれています。
「人は誤り、機械は故障する」
この当たり前のように、ポカは出るものです。
そのための事前準備が必要になるという教訓です。
環境の整備、手順等の準備、関係者間での認識の統一等が必要ということです。
特にリスクという視点での検討(リスクアセスメント&リスク低減対策)が望まれるという、すべてに通じるリスク管理論に行き着きます。

何度も言われ、当たり前のことになっているが出来ない!
(できない状況下に置かれる!?)
火事を消す勇者も当然に重要であり必要ですが、日頃の火の用心を怠らない賢者の価値に目を向けられる文化が言われて久しいですが---

陣頭指揮という誤解

<危機管理におけるリーダーシップとは>

戦国大名の中で、軍団の戦闘に躍り出て戦った者はほとんどいない。
桶狭間合戦における今川義元のように、大名が討死したら全軍が崩壊してしまう以上、自らの立場をわきまえずに陣頭指揮にこだわるのは「匹夫の勇」にすぎないからだ。

身体を張るリーダーシップが許されるのは、中隊長クラス(部下の人数が百~二百人)までだ。

個人の武勇ではなく、頭脳で勝負するのが上級指揮者の役割なのだ。

長丁場の危機管理を乗り切るには、陣頭指揮にこだわらずに、適宜休息を取って思考をクリアに保つのも仕事のうちと割り切ることだ。

危機管理に関して世間に誤ったイメージが流布している。

もしトップの指示がなければ、何事も前に進まないような組織だとどうなるか。

東日本大震災の際には、政治主導の名のもとに官僚たちを「指示待ち」姿勢にしたことが、対策のいたずらな遅延につながったと指摘されている。

対策の是非について議論が分かれるような特異な案件でさえなければ、トップ自らのリーダーシップは無くても構わない。
むしろ必要とされるのは、中間管理職レベルのリーダーシップである。
その場におけるトップの役割は、中間管理職の自発的行動を促すために、「後の責任はオレが取るから、君たちの思うようにやってくれ」と後援してやることだ。

「危機管理のために特別なことをする必要はありません。普段の仕事で活力が溢れている組織は危機管理にも強いということです」

中小企業においては、その規模にもよりますが、危機下のトップのリーダーシップの存在は大きいと思います。
二百人規模程度以下では、トップが陣頭に立つ必要性とともに、中間管理層の人財の存在の意味をいわれています。

そして、日頃からの組織の活性化が危機管理にもそのまま有効であると、「企業生命力」を説かれています。

この日常における活動の大切さについては、阪神淡路大震災の体験をもとに編集された「地震イツモノート」(ポプラ文庫)にも書かれています。
「イツモの生活の中のちょっとしたことをイツモのように進めること。実はこれが防災になると考えたいものです。」

規模にもよりますが、何もかも自分で対応するという人任せに出来ないトップの場合、問題が出てきそうです。

 腹が減っては戦が出来ぬ

 <東海大水害の際の樋口晴彦氏の対応>

2000年9月11日夕方--東海大水害の幕開け

日本有数の大都会である名古屋で洪水が発生するなど思いもしなかった。

災害対策責任者としての立場

何も指示せずとも優秀なスタッフが着実に対策を進めてくれた。

この災害対策で私(樋口氏)がイニシアティブを取ったのは、たった一件だけだった。
それは、食事の手配である。

食事もせずに作業を続けても能率はどんどん落ちる一方で、ケアレスミスや判断ミスも増えることを、過去の教訓から学んでいただけだ。
要するに、部下にもっと働いてもらうために食事の手配をしたのである。

こうした急場になると、日本人の気質として、「みんな懸命に頑張っている時に、食事のことを言い出したら白い目で見られる」という意識に陥りがちだ。
実際にも、災害警部本部にせっかく食事を用意したのに、たがいに遠慮して食べようとしないので、一人ずつ指名して、「今すぐメシを食ってこい」と命じなければいけなかった。

誰もが口に出すのをためらう案件こそ、指揮官が率先して扱わないといけない。

後方支援としての「物資補給」という役割(兵站)の大切さを説かれています。
リーダーは、叱咤激励、精神鼓舞だけで、「細かいことを言うな」だけでは部下には(心底)通じません。

東日本大震災の時、大勢の社員とバスで移動中のある経営者は、その事態の異常さを察知して、一番にコンビニに寄り食料を確保したという話を聞いています。
--そのような咄嗟の判断は、どのように出てくるのでしょうか?
  そのそれ以前からも経営者は多くの人に慕われている人ですが--。

決断すべき時に決断する

<危機管理の指揮官に求められる資質>

フランスにおける「ジェリコ作戦」と「モスクワの劇場センタービル占拠事件」の例を挙げておられます

悲しいことだが、危機管理の実務では、--
重大な結末を回避するために何らかの対処措置が是非とも必要とされるが、その措置を実施するには相当な犠牲を覚悟しなければならず、しかも、その犠牲の大きさがどれほどのものになるかは、実際にやってみなければわからない。
そういう状況に直面した際、少しでも不確実性を減らすために、情報の収集に努めるのは当然である。
しかし、「情報は足りず、間に合わず、あてにならず」が危機管理の実際であり、なかなか十分かつ正確な情報が集まるものではない。
情報収集に時間をかけすぎることで、かえって被害の更なる拡大を招いたり、対策の選択肢を狭めたりする場合がある。
要するに、決断すべき時には決断しなければならないということだ。
それがどのような結果を生むかについては、運命の手に委ねるしかない。

危機管理の指揮官に対し、分析力、教養、包容力などを求める識者は少なくないが、こういった面については、ある程度まで部下が補佐できる。
ここぞという時にルビコン河を渉れる果敢さと、当たり牌(はい)を一発でも積もる運の強さこそが、指揮官に真に必要とされる資質なのではないだろうか。

上記の記述は迫力を持って迫って来ます。
まさにそのような「運を天に任せる」というような場面は、決断に際してあるものです。
(ただ、そのための準備がどこまで出来ているか、補佐の人財を得ているかの差異が大きいということです)

災害時の避難等の対応行動においても、最終的にはこのような場面に(場合によっては待ったなしで)直面することも考えられます。

「運の強さ」については多くの識者が言われています。
非常に分かりにくい領域ですが、「運気を持ち供えた人」ということです。
良い方向への「強い考え方」「解釈の仕方」等を強く備えた人とも言えるのではないか--と思います。